ロリータとアメリカ文学

11 26, 2010
ロリータ


メリカ文学なんておもしろくねえよ、あんな歴史の薄い国の文学がなんたらかんたらと言っていたこともあるけど、アメリカ文学は面白い。こういうのってたぶん年齢とか経験とか読書履歴とかの中で変わっていくのだと思う。ヘルマン=ヘッセとか今読んでも、正直よくわからない。読書を始めたころはへルマン=ヘッセを読みながら、「なんでこの人はぼくのことをこんなに知っているんだろう」なんて思ったものだ。

ラジミール=ナボコフはもちろんロシアの人なんだけどロリータはアメリカ文学とされている。ナボコフのすごいところは――ナボコフは翻訳もやっていたのだが――彼はロシア文学をフランス語に翻訳したり英語に翻訳したりしている。普通は非母国語を母国語に翻訳する。逆は難しい。旅行するためにフランス語しゃべる程度ならともかく、文学はその言語の最も美しい形を要求されるわけで、やはり日本の本屋に並んでいる洋物の翻訳者をみるとみんな日本人だ。

リータは英語で書かれた作品だし、舞台もアメリカだし、ソーダ・ファウンテンが頻繁に出てくるのでやはりアメリカ文学だ。ソーダ・ファウンテンとアメリカ文学は切ってもきれない。というのはもちろん偏見だけど、誰のなんていう短編集だったか覚えてないんだけどソーダ・ファウンテンという語を聞くたびに思い出す話がある。

さな街に一軒だけのドラッグストアを営んできた店主の話で、新しくできた店に客を取られてしまったことに危機感を覚えた店主がある企画を始める。おっきな瓶の中にコインをたっぷりと詰め込んでその中にいくら入っているか当てるというもの。その店で買い物をするたびに権利が一回もらえて、店主はそのつど誰がいくらと予想したかをメモをしていく。そして一月後の正解発表の日にはその瓶がまるまるもらえるというもの。要は宝くじだ。

んな中、妹を連れて一ヶ月のあいだ毎日やって来ては何も買わずにじっと座り込んでビンの中のコインを数え続ける少年がいた。いかにも貧しい風体の兄弟だ。そして締め切りの前日に一杯のソーダを買って、店主に金額を告げる――という話。妹はしゃべらない。兄は生意気に描かれているのだが、妹を連れているというだけで嫌味が消える。

といえば「ライ麦畑で捕まえて」を挙げないわけにはいかない。これこそアメリカ文学のベストセラーで、知らない人はいまい。そして主人公ホールデンの妹、フィービーは世界の妹萌え史上に名を残す掛け値なしの最高の妹だ。妹でロリだ。大好きな作品で、ぼくは英語、野崎訳、村上訳と読んでいる。そしてフィービーの決め台詞、 stop swearing! を「きたない言葉は使わないでって言ってるでしょ!」と訳した村上訳が好きだ。野崎訳では「罰当たりな言葉はよしてよ」となる。村上訳はラノベっぽいという批判もあろうがしっくりくるし、ラノベは日本語の特権だろう。訳としては当てにはならないが原文に埋もれた鉱脈を発見している。

てさて。ロリータの話はどうなった。このロリータの冒頭5行にはぼくが読んだ中で最高の文学がある。ロリータを開いて最初の5行を読むと、ぼくは胸がいっぱいになって本を閉じた。最初の5行なので前知識も要らない、読めばいいじゃん。だからロリータをテーマに選んだところでロリータに関して書くことなんてないんだ。

 ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩目にそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。
 朝、四フィート一◯インチの背丈で靴下を片方だけはくとロー、ただのロー。スラックス姿ならローラ。学校ではドリー。署名欄の点線上だとドロレス。しかし、私の腕の中ではいつもロリータだった。


ころでぼくはロリータを人にすすめすることはない。これから先何度でも読もうと思っているが、読んでみてどうだったと訊かれると戸惑う。ラノベっぽくはできない正真正銘、高尚な文学作品で、読者は他の名作文学作品にも親しんでいることを期待される。
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元バックパッカーの引きこもり、世界に飛び出す引きこもり。当初は役立つ情報を、と思っていたんだけど自分の興味しか書けないね。

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